麻の着物

夏まで生きていようと思った。そう思いながらなんとか生きている人間の観劇とか読書の記録。

推し作家からサインをもらうということ

ここ最近推し(俳優)との接触(チェキ)が多すぎて、推し(作家)の接触(サイン会)にどんな顔して行ったらいいかわからないよ~!

という冗談は置いておいて、米澤穂信先生のサイン会に行っきた。

 

私は小学6年生の時に今は亡きスニーカー・ミステリ倶楽部から発刊されていた『氷菓』と『愚者のエンドロール』を読んでハマったもう最古参と呼んでいいのでは?という米澤ファンだ。*1

その後中学生か、高校生か、その頃に『さよなら妖精』を読んで、この本は私の人生の中でも最も大切な本の一つになった。高校生の時は読書好きの友人とこの本の良さを語り合ったし、図書委員だったので高校の図書室にこの本を置いた。

そうして、受験やら何やらがあってさすがに全作品は追えなくなった大学生の私は、今は亡き某西武百貨店のカフェリブロで『蝦蟇倉市事件』を読んでいた。アンソロジー作品であるこの本を何の前情報もなく、好きな作家もいっぱい書いてるなーと思って読んでいた私はその中の米澤先生の短編「ナイフを失われた思い出の中に」*2で衝撃を受けた。そこにはあの『さよなら妖精』に登場する大刀洗万智がいた。

あんなに好きな作品だったのに、情報を追い切れてない自分*3に忸怩たる思いもありつつ、なんだか嘘みたいな気持ちで読み進めた。

そして、2015年に彼女を主人公とした『王とサーカス』『真実の10メートル手前』が発刊された。そこで『さよなら妖精』で高校生だった彼女は大人になっていた。私と同じように。

推理小説は探偵役とその助手役というスタイルの登場人物配置が多い。いわゆるシャーロック・ホームズジョン・ワトソンである。米澤作品もシリーズによって違いはあるが、この形を踏襲したものが多い。(『古典部』シリーズにおける奉太郎とえる、『小市民』シリーズにおける小鳩と小山内)*4

さよなら妖精』における探偵役は守屋、そしてワトソン役にあたるのはマーヤだろう。このシリーズはユーゴスラヴィアからやってきた少女マーヤが日常の謎を見つけ、そこから推理が広がっている日常の謎を取り上げた推理小説だ。そして後半最大の謎となるのが、日本を離れたマーヤがどの国へと帰ったのかということだ。そこにはすでにワトソン役であるマーヤはいない。

その時守屋とともに推理をするのが大刀洗だ。彼女はワトソン役というには一人で真実に迫り得る人だ。そして他の米澤作品におけるワトソン役のように彼に推理をする動機は与えない。最後まで動機を与えるのはマーヤだ。

さよなら妖精』を読んだことならわかると思うが、あの物語の後でなお日本で生きて行く彼らというのは、描かれないからこそ胸に残る。考えてしまう。

だから約10年の時を経てもう一度私たちの前に現れたのはタイミングとしてはちょうどよかったと思う。少女だった私は大人になってしまった。

「ここがどういう場所なのか、わたしがいるのはどういう場所なのか、明らかにしたい」

『王とサーカス』より

 

 

大刀洗は、迷いながら悩みながら、それでもジャーナリストという仕事に誇りと信念をもった女性として再び現れた。それは綺麗で、なんと希望のあることだろう。

 

今回のサイン会で一番良かったことは、そんな10年ぶりの再会への喜びを米澤先生に直接伝えられたことだ。

初めて拝見した米澤先生は優しそうな方だなと思った。私の震える言葉に深く頷いてくれた。同じように東京創元社のスタッフさんも頷いてくれて嬉しかった。

作家のサインが好きなのは、勝手ながらその本が私のために贈られたものだと勝手に感じられるからだ。一対一で。もちろん本というのはたくさん刷られてたくさんの人の手にわたる。そこには作家だけではなくたくさんの人の手が入っていて、それはそれで尊いものだと思う。

だけど、私にとって、私にとっての人生の一冊を、私のための本として、渡してもらえるサイン会はたまらなく嬉しい。ライトノベル系だと最近は色紙に書くことも多いので、それはそれで宝物だが、やはり私はサイン本を愛してる。

推し作家からサインをもらうことは、私の一冊を手に入れることだし、その感動を喜びを直接伝えられる機会でもある。

 

 

 

*1:手元の『氷菓』も『愚者のエンドロール』も初版本である

*2:『真実の10メートル手前』に収録

*3:読んだ時には発売から結構時間が経っていた

*4:ただ米澤作品においてはワトソン役は記述者でも相棒でもなく、探偵へ動機を与えるものという意味では他の作品と毛色がかなり違うので便宜上の呼び方だとおもってください